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“モンスター”家族がホームを変えた!

入所しているのは、その方の8歳の上の奥さん。かつては、しっかり者だった奥さんが、認知症になり、介護が必要になった。徘徊や暴言が見られ、介護に抵抗するようになり、8年間は自宅で介護したけれど、さすがに手に負えなくなってきて、入所。それから6年が過ぎたところで、誤嚥性肺炎で入院。「半ば無理に食べさせられていたから、誤嚥してしまった。お前たち、何やっているんだ!」。そんな思いがご主人にあった。しかし、職員たちに話を聞いてみると、悪気があってやっているのではなく、本人のためになると思ってやっている……。

 入院先の病院は胃瘻の造設を提案したけれど、ご主人は「胃瘻を付けてまで生かすことは、世話になった女房に恩を仇で返すようなもの」と言い、ホームに帰らせたいと言い出した。しかし一方の施設側の職員は、「病院が胃瘻を作るべきと言っているのだから、とても口から食べさせることは危険」と、誰もが引き取ることを恐れ、ホーム内は侃々諤々の議論になった。

 結局、僕はご主人の意思を尊重し、奥さんをホームで引き取り、ゼリー食を食べさせることになった。最初の介助役は、ご主人。奥さんの頰を何度も撫でた後、指を歯のない奥さんの口に入れたら、奥さんが指を吸い始めた。そこでお茶のゼリーをスプーンで食べさせたら、うまく食べることができた。それを見ていた職員は顔を見合わせたね。「口から食べることが可能」だと。それから約1カ月、ほとんど毎食、ご主人が食事介助に来て、次第に職員たちが引き継ぐようになった。

 1日600Kcalのゼリー食。時にはアイスクリームも食べた。それで約1年半、ホームで生きた。再度、誤嚥性肺炎を起こし、入院。胃瘻を勧められたけれど、やはり断り、再びホームに戻ってきた。それから約2週間後、いよいよ食べられなくなり、静かに息を引き取られた。享年92。

 本当にいろいろ教わったね。病院勤務医時代、入院患者には、下手すれば、1日2000Kcalくらいは食べさせていた。1日600 Kcalで、1年半も生きることができるなんて信じられなかった。

 このご主人は、「厄介な人」として職員から敬遠されていた。家族会でも自分の思い、本音をどんどん発言していた。時には、他の入所者のご家族に、「胃瘻なんて付けちゃ、ダメだ」と言って回っていた。でも僕は、ご主人と一杯飲みに行ったこともあった。何度か話を聞いているうちに、「いや、ひょっとすると、文句を言うご主人の方が、入所者のことを、本気で考えているんじゃないか」と思い始めた。「ホームは、いったい何をする施設なのか」と。

 これまで延命至上主義の結果、「誤嚥性肺炎製造工場」となっていたホームが変わり、どんどんホームでの看取りが進んだ陰の力になったのが、このご主人だと思う。


芦花ホームのホール。ここで終末期に関する勉強会を開催した(写真:的野弘路)
――芦花ホームが、「誤嚥性肺炎製造工場」から変わるもう一つの節目となったのが、100歳を迎える入所者のお祝いの会で、看取りに関する勉強会を開いたことだ。
 敬老の日に毎年、世田谷区から、区長もしくはその代理が来て、入所者にお祝いの品を渡す。皆で太鼓を叩いてお祭り騒ぎをしていた。それもいいけど、家族もたくさん来る。職員もいる。ある年、施設長とも相談して、「せっかくだから、勉強会やろう」という話になった。

 そして当日。皆が集まったところで、黒板に大きく書いた。「口から食べられなくなったら、どうしますか」。家族と職員、皆で考えましょうと。「今は食べられるけれど、いずれは食べられなくなります。そうしたら、どうしますか」と問いかけた。芦花ホームに来て数年経っていたけれど、「坂を上がっていく」入所者を見たことがなかった。皆、坂を確実に下っていく。次第に自然に食べられなくなり、最期は夢の中で静かに眠るように逝く。

 「しっかり食べて、いつまでも元気」なんて、夢物語。ここは何のための施設か、坂をゆっくり下り、最終章にたどり着くまで、残った人生をどう生きるか、それをどう支えるのかを考えるのが、このホームの役割ではないか。本音で話そう。体裁だけを整えていても、仕方がない。どうしてあげるのが、本当に一番本人のためになるのか、この芦花ホームは何をするのが、一番の使命なのか……。

 そんなことを語り始めたら、職員は飛び上がったね。本当にあの敬老の日の勉強会から変わった。それから何度も、何度も勉強会をやった。もちろん、時間はかかったけれど、静かに最期を迎えられる入所者を見るようになったら、職員が変わっていった。「こんなノルマみたいに食べさせていいのか」と本気に考え始めた。