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特養は「誤嚥性肺炎製造工場」だった◆Vol.21

「病気は、治さなきゃいけない」と思ってやってきたけど、いよいよ人生の最終章という段階になったら、治そうとすること自体、意味がない時期が来る。その際、医療はどうあるべきか……。僕自身が取り組むべき最終的な命題が明確になってきた。

――もっとも、ホームで仕事を始めた当時は、終末期を迎えるのにふさわしい場とは言えない状況だったという。
 まさに医療を押しつけていた。今はほとんど来ないけれど、12年前に僕がここに来た当初は、1日、3、4回は救急車が来る状況だった。ほとんどが誤嚥性肺炎の患者さんの搬送だった。「1日、1500kcal食べさせなければいけない」と職員が必死だった。それがノルマ。しかし、高齢になれば、そこまで食べる必要がない人も多いのに、無理やり食べさせていた。その結果、「誤嚥性肺炎製造工場」とも言える状況だった。

 ここに来た頃の僕の主な仕事は、誤嚥性肺炎を起こした入所者の入院先探し。肺炎を起こし、苦しがる入所者を放っておくわけにはいかなかった。でも僕が病院に電話をすると、「芦花ホームさん。さっきまで1床空いていたけれど……」「今、忙しくて手がいっぱい」って、体よく断られてしまった。今は違うけれど、当時は病院との関係は良くなかった。

 ある時、職員に言ったよ。「何だよ、お前たちね。もう食べたくないって言っているのに、口の中に無理やり、突っ込んで。『誤嚥性肺炎製造工場』の工員だよって。そんなばかなこと、やめろって」。